Tak. Tokiwa Photography

 

R.I.P. 石岡 瑛子 様

2012/01/27

 

今朝のニュースで石岡瑛子さんが、膵臓ガンで亡くなられたことを知り、大きなショックを受けました。思えば2006年、月刊プレイボーイのマイルス特集で、インタビューをさせていただき、グラミー賞のデザイン部門を受賞した、マイルス・デイヴィス(tp)のアルバム”TuTu”のデザインにまつわるエピソードを伺いました。その時に2006年に出版した私の著書「ジャズでめぐるニューヨーク」をプレゼントしたら、「最近のジャズを聴いていないから、どこかご案内して下さらない。」と言う御連絡があり、コーディネーターご夫妻と共に、折からのJVCジャズ・フェスティヴァルで、クラブ、アーヴィング・プラザでやっていた、ロイ・ハーグローヴ(tp)のRHファクターと、マーカス・ミラー(el-b)のダブル・ビル・ライヴに、ご招待しました。ヒップホップ・ユニットのRHファクターは、マイルスが生きていたら、こんな感じになっていたのではと思ったのですが、ハイ・ノートを連発するロイには「音楽は、オリンピックじゃないんだから。」とあまりお気に召さなかったようですが、TuTuのプロデューサーのマーカスの演奏には、ご満足いただいたみたいです。アンコールで、マーカスが「今年マイルスが生きていたら、80歳になる。Happy Birthday Miles.」と言って”TuTu”を演奏したら、感極まった石岡さんが、涙を浮かべてらしたのが、今も印象に残っています。そのアーティストとしての多大な功績は、私がここで書くまでもないですが、また何かご一緒に聴きに行きましょうと、お話ししながら、実現しなかったのが悔やまれます。謹んで、ご冥福をお祈りします。

 写真は、そのインタビューの際にお借りしたもので、石岡さんがニューヨークで参加したグループ展に来てくれたマイルスとの2ショット、アーヴィング・ペンのオリジナル・プリント、グラミー賞のトロフィー、TuTuのLPのデザイン、確か石岡さんは、CDになってデザインがめちゃくちゃにされたと、ご立腹でした。そして、70年代に石岡さんがデザインした、マイルスのコンピレーション盤で、これがきっかけで、TuTuのデザインの依頼へとつながったそうです。ちょっと、このブログでは長くなりますが、そのプレイボーイ・ジャパンでの記事の再録と、またその記事の元になった、インタビューの全貌を掲載させていただきたく思います。ぜひお読み下さい。



マイルスが抱きしめてくれたあの20秒間

石岡瑛子 Eiko Ishioka


究極のミニマリズム『TUTU』のアートワーク 


 私がマイルスに初めて会ったのは、1983年の5月、来日していたマイルスの57歳の誕生日に、三宅一生さんがひらいたディナーの席でした。そこに招待された私は、70年代にマイルスとの直接のセッションを持たないでデザインした、コンピレーションLPレコードのボックスセット(CBSソニーとRCAビクターの日本だけの共同プロジェクトで3枚組・2セット)をマイルスにプレゼントしました。マイルスは金と銀の豪華な函に、マイルスの目が左右一つずつ大きく輝いているデザインを非常に気に入ってくれたのです。 

 それから、その年の11月、私の初めての作品集『Eiko By Eiko』がニューヨークのキャラウェイ・エディションから出版され、その記念パーティに、マイルスは妻で女優のシシリー・タイソンを同伴して来てくれました。彼は、低いしわがれた声で耳打ちするように「昨夜、こいつとふたりで、アンタの本を隅から隅まで4時間かけて見たんだ。なにしろ最高だよ」と褒めてくれました。 

 86年、マイルスはワーナーブラザースに移籍し、その第一作アルバム『TUTU』のアートワークを担当するようマイルスから指名され、一緒に仕事をする本格的なチャンスを手にしたのです。

 マイルスはファッションにたいする強い執着があって、服、ジュエリー、靴と、自分の頭のてっぺんから足の先まで、流行に左右されない彼独自のスタイルを持っていました。彼は私にそういう姿をかっこよく撮って、ジャケットに再現してくれるようなデザインを漠然と期待していたような気がします。だから、まさか私が、彼のミニマルな音楽を象徴するために、可能なかぎりシンプルなモチーフでデザインしようと考えているとは、思ってもいなかったでしょう。 

 最終案が決定するまで、私なりのかっこいいマイルス像というものを演出したアイディアを10案くらい彼に提示したのですが、私は、はじめから、彼の顔(マスク)と手(ハンド)だけでやるという、究極のミニマリズムの案を選択していました。マイルスは、そのコンセプトの魅力というものを、最終的にアートワークが完成するまで、理解できていなかったと思います。でも、マイルスは私をアーティストとして尊敬し、すべてを任せてくれました。 

 フォトグラファーにアーヴィング・ペンを起用したのは、私の師匠のような存在であり、アーティストとしてストイックに自分を戒めている彼が撮影すれば、必ずや圧倒的な表現を得られるものと確信していたからです。最高に贅沢なキャスティングでしたが、いつかこの偉大なフォトグラファーと仕事をしてみたいと願っていたのです。マイルスという最高の素材をペンが撮り、それを私が料理する、完成図は鮮明に私の頭の中に描かれていたのです。


「俺はアンタを憎んでいる!」と言ったマイルス 


 今でも、あのフォトセッションが終わったときのことは忘れられません。私は先にスタジオを出て行ったマイルスに挨拶をしようと、ドアを開けたら、彼と専属のメイキャップ・アーティストそしてアシスタントが、エレベーターを止めて、私を待っていてくれました。つまり3人の黒人の待つエレベーターの中に私は入っていったのですが、みんなひどくシリアスな顔をしていたのです。 

 私が“How are you doing?”と問いかけたら、マイルスは"“I hate Japanese"(日本人は大嫌いだ)と応えました。マイルスの逆鱗に触れたのかと一瞬ドキッとしていたら、さらに”I hate you"といって、私を強く抱きしめました。エレベーターがすぅっと下まで降りていったのですが、まるで映画の一場面のようでした。 

 マイルスは20秒くらい私を抱きしめていたわけですが、あれは彼らしい気持ちの表し方であり、"I hate You!"と言ったのは、私の仕掛けに対して、俺は全部やられてしまったよという癪な気持ちと共に、アーヴィング・ペンという素晴らしいフォトグラファーに撮られて満足だったというのと、お前は、なかなかやるよなというような気持ちをひとつにした台詞だったと思います。 

 本当にあの"I hate you"というのは耳にこびりついて離れず、忘れられません。黒人は、よく裏返した表現をするじゃないですか。だから、マイルスは彼流の最上級の喜びを表してくれたのだと思うんですよね。”I love you so much."のようなね。 

 マイルスと仕事をした濃密な時間というものは、かけがえのないものでした。マイルスと一緒にプレイをすることで成長していくミュージシャンのように、私も成長できたのです。グラミー賞という結果までついて。彼も、私から学んだと思ってくれていればいいけど(笑)。もしかしたら今、天国でこう思っているかもしれませんけれど。「瑛子、俺はうまくやっただろ、君とのプロジェクトで」って。(談)-常盤武彦-




石岡瑛子インタビュー


5/18/2006 フォア・シーズン・ホテルNYのカフェにて  常盤 武彦

常 : 常盤 石 : 石岡


常 : この、オープニング・パーティの写真の時の状況のご説明をお願いし致します。。


石 : この写真は1986年の12月のニューヨークのIBMギャラリーで撮影されたものです。その年の6月にミネアポリスで始まった”Tokyo Form&Sprit"展の巡回展で、サンフランシスコ、ロスアンジェルスと廻ってニューヨークにやって来ました。アメリカを代表する、現代美術のメッカ、ミネアポリスのウォーカー・アート・センターの館長であったマーチン フリードマンが自ら指揮してプロデュースした最大規模の日本に関する展覧会でした。丁度マイルスが、NYにいたので、そのオープニングとディナー・パーティに誘ったら、是非行きたいと言ってくださり。珍しく一人でいらしてくださったのです。TuTuのフォトセッションも終えたあとで、私とマイルスとの間には、確固たる信頼関係があったとはいえ、マイルスような、すべてに慎重なセレブが、全く一人で来てくださったので驚きました。このことで私が何を言いたいかと申しますと、マイルスは大きな誤解を受けていると思うのです。マイルスは、いろいろな会話をしていても、非常に知的レベルの高い方だという印象を受けました。しかし、世間からはセクシーなジャズの大スターという括り方をされ、それに対するマイルス自身の不満が、かなりあったと思われます。ですからこの展覧会に来てくださったときも、私のお話に丁寧に耳を傾けてくださりました。でも、マイルス・クラスのセレブが現れると、展覧会もディナーの席も、わさわさと色めき立ってしまう。マイルスにとっては、こういうことが非常に煩わしく普通のアーティストと同じように、気の向くままに行動したかったのではと思います。ニューヨークは、比較的そういったセレブに対して無関心で、まだ心地よい環境でしょう。マイルスと私の関係は、お互いアーティストとしてのリスペクトがすごく基本にありました。たまたま私が女性であったので、周囲から「マイルスに気をつけろよ。」という言い方をされました。マイルスはもちろんすごくモテたし、世界中からいろいろな女性が押しかけてきてしまうぐらいでしたけど、しかし、ある側面、マイルスの本質を知らない人が、あまりに多すぎると思われました。マイルス自身、ジャズと言う世界の中でキングのような存在として君臨していることに、本人は喜んでいなければ満足もしていない。マイルスのように才能のある人が、括られた(カテゴライズされた)世界でエスタブリッシュ(高評価)されるながら、そこから飛び出してもっと様々なことに挑戦している時代に彼は生きていたから、ジャズの帝王という言われ方を、憎むというと極端になるけれども、あまり好んではいなかったと思います。これはアーティストを囲むジャーナリストにも、問題があると思います。マイルスは、ジャズを取り巻くジャーナリストやプロデューサーが、マイルス達アーティストの可能性に対して、非常に狭い目で見て、カテゴライズされてしまう、マイルスはいわゆるジャズのスーパースターという立場を越えていたと思われるけど、ジャズの狭い世界の中に押し込められ、いつも足を引っ張られることへのたくさんの不満を持っていたように思われます。そういう不満をシェアできるクリエイター仲間が、マイルス・クラスのスターになってしまうと、いなかったのです。シシリー・タイソンは私生活のパートナーとして、彼女自身も非常にハイレベルのアーティスト(女優)であったので、シシリーと一緒にいた頃のマイルスは、シシリーに導かれるように大切なものを見失わないで、何かを探求できた時代だと思います(80年代初期)。しかし、彼がスターの地位と取り戻すと、シシリーの大切さをすっかりマイルスは忘れてしまい、グラマラスな面で、浮ついてしまうといったことを私は感じられました。いわゆるセレブとなってしまう人たちの悲劇、よっぽど賢くないと、大事なものを見失ってしまい、道を誤ってしまう悲劇を、マイルスの上にも見たような気がします。たとえば、この私たちが催いた”Tokyo Form & Sprit "展に来てくれたのも、このように気軽につきあえるクリエイター仲間の友人が非常に少なかったのではと思うのです。もしも、彼がそのような友人に取り巻かれて入れば、それは本当にハッピーで、また豊かな人脈を築けた人だと思われます。これが、セレブとなってしまった人の悲劇という気がします。


常 : ハービー・ハンコックや、ウェイン・ショーターらのミュージシャンとは、最後まで強い信頼関係で結ばれていたようですね。


石 : そのようですね。マイルスが亡くなった1991年はちょうど私がコッポラの「ドラキュラ」(衣装デザイン担当)の制作の真っ最中でした。マイルスの葬式に駆けつけると、もちろんハービーもウェインも出席していました。彼らとは70年代にアルバムのアートワークを担当し、旧知の仲です。翌年、「ドラキュラ」でオスカーを受賞した私を、ハービーとウェインがお祝いをしようと、ハービーの家にご招待してくれました。そのときも、私の話はそっちのけで、一晩中3人でマイルスの話になってしまいました。最近、私が大学等で講演や国際会議で、もしも私が教育者であるとすれば、どういった教育を望むのかという質問を受けます。そんな時に、いつも思い浮かぶのはハービーやウェインから聞いたマイルスの教育法です。マイルスの教育法というものは、もっとも素晴らしいものであり、洗練されたものであり、もっとも人間同士でなければあり得ない教育の仕方だと思います。細かいことは何も言わず、ただ一緒に演奏をするだけなのですが、マイルスと演奏することによって成長してしまう才能を持ったメンバーが集まっていると言うことでしょう。彼らがマイルスと共演することによって成長し、スターになっていく。学校だとか、本からは絶対に教えてはもらえない、人間としての最高の教育機関という気がします。


常 : ジャズの世界では、マイルス・グループと、アート・ブレーキ(ds) &ジャズ・メッセンジャーズ、ベティ・カーター(vo)のグループが、次々と若い才能を生み出したことで知られています。


石 : そうですね。この3人のようなプレイヤーと一緒に演奏すると、何かが目覚めてくる、そういった才能をマイルス達は持っていたのでしょうね。


石 : 私の著書「私Design」の中で書き忘れたことがあります。フレンチ・ヌーヴェルヴァーグのルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」(1957)の音楽を、マイルスは制作しています。最近、そのあらゆる素材を集めた完全版のDVDが発売されたのですが、そのなかの”Behind the screen"で描かれているマイルスと、ルイ・マルのコラボレーションが、今の映画の歴史から見ても、どんなにイノヴェイティヴなことであったかを、改めて痛感させられました。それによりますと、ルイ・マルはあらかじめ自分のイマジネーションとやりたいことを、マイルスと話し合っていたようです。私は、マイルスの演奏は完全な即興ではないと思う。ある程度、素材を用意してレコーディング・スタジオに入り、それをもとにしてフッテージと対峙して演奏したと思います。主人公のジャンヌ・モローが、自分の恋人が大変な事故にあって苦しんでいるのを知らずに、自分が捨てられたと思って一晩中、街をさまようシーン、それが投影されているスクリーンに向かってマイルスは、ずっと演奏をしています。この新たに付け加えられた"Behind the Scene"の映像の中に、マイルスがスクリーンに向かってソロをとっているシーンを撮影したドキュメンタリーのフッテージが入っているのですが、それは鳥肌が立つくらい素晴らしいです。そこにはマイルスのすべての感情表現が200%投入されていると思います。このシーンからも、マイルスの音楽がなかったらルイ・マルの「死刑台のエレベーター」の成功は、あり得なかったと思います。一人のミュージシャンが持っているアートの世界と、全編の音楽とを一体化したというのは、うまくいけば絶対に成功するのです。しかし、それは歴史的には、ほんのわずかです。どうしても映画音楽というものは総花的になってしまいますものね。今改めて「死刑台のエレベーター」を見直しても、その新鮮さ、タイムレスさには驚かされます。それはすなわちマイルスの音楽がタイムレスであることの証明でもあると思います。もちろん彼は時代の潮流というものをいち早く読み取って、そういうアルバムをたくさん創っているわけだけれども、マイルスが持っている本質的な感情表現は、エターナルに訴えかけるものがあり、改めてマイルス・デイヴィスはすごいクリエイターであると、私は思ったのです。「死刑台のエレベーター」はルイ・マルにとっても初監督作品ですよね。それであれほどすごい映画を作ってしまうんですから彼もまたすごい才能のアーティストです。彼がマイルス・デイヴィスを見つけ出して、あのような音楽と映画のコラボレーションの実験をやり遂げています。それから50年が経っているのに、それだけの実験をやっているアーティストがいったいどのくらいいるのだろうかと考えると、いわゆる劇映画の世界では、非常に少ないわけです。本当にこのことに気がついたのが、つい最近なのですが、何で「死刑台のエレベーター」の時の話を徹底的にマイルスに聞かなかったのかなあと、残念なことをしたと思っています。

 

常 : マイルス・デイヴィスの音楽を総覧してみますと、マイルスこそ音楽家の中の究極のミニマリストに思えますが、石岡さんのご意見をお聞かせください。


石 : 表現とは音楽だけじゃなくって、我々の世界もミニマリズムの究極のよい仕事をすると、これはもう永遠に忘れられない仕事になります。十分にタイムレスな仕事になり、何十年後にそれを再演しても十分に古くならない仕事になと思います。私は、小説でも音楽でもアートでも、究極のミニマリズムと言うことを追求していくことによって、ある種の時代を超えたものを創れると感じます。


常 : 石岡さんが担当なさった”TuTu"のアートワークも、まさに顔と手だけというマイルスのミニマリズムの美学を体現していると思われますが、その製作過程について、お話しいただけますでしょうか。まずマイルスに、この顔と手のアイディアの他に、どのようなアイディアを呈示なさったのですか?


石 : それは私たちがやる、一つのストラテジー(戦略)として、どうしても一つのアイディアで説得したいために、それがぴったりと来るような周辺を用意するのです。相手が自分と全く同じことを考えていたら、直球勝負でそこに決断が行くのだけれども、相手が分からなかったり、迷ったりするタイプだと、このような戦略が必要となってくるのです。私も、マイルスがどれだけの決断力を持っているか分からないので、ある程度、自分というものを際だたせるために、周りを作る。そういった私の小さな戦略として、マイルスに10案を送ったのです。だからその10案の細かいディテールはおぼえていないけど、マイルスはファッションにたいする執着があって、もう信じられないほど服を持っている人でしたから、自分の頭のてっぺんから足の先まで、ファッションで極め尽くした、もちろん流行を追うとかではなく、彼独自のファッション・スタイルを持っていました。そういうものを写真に格好良く撮ってくれるようなことを、おそらく期待していたような気がします。それはなぜかというと、マイルスに"Eiko By Eiko"という本をプレゼントして、その出版記念レセプションにシシリー・タイソンと来てくれて、「昨日4時間かけて、この仕事をシシリーと見たんだよ。」と言ってくれました。最初にお話ししましたように、マイルスはすごく知的な方で、そうであればあるほど、私の仕事もある種のミニマリズムですし、その中で私の、たとえば映像を使った仕事のなかで、彼が見ていて、たとえば瑛子はファッションに対するセンスも非常によく理解できているとか、そのような理解の仕方をしていたかもしれません。だから、まさか私が、究極のミニマリズムである彼の音楽を、象徴する(シンボライズする)ために、究極のモティーフでやろうと考えているとは、マイルスは、よく分かっていなかったと思います。だから、顔と手だけでやるというアイディアのほかには、いろいろなドラマを盛り込んだ、いわゆる私なりの格好いいマイルス像というものを演出したようなアイディアを9案ぐらい出しているわけです。彼は、その格好良さというのをすごく気に入っていて、逆に言えば私が究極にその無駄を全部省いて、彼の顔(マスク)と手(ハンド)だけでやると言うことの、その深さというものを、アートワークが完成するまで、彼は理解できていなかったと思います。マイルスはもちろん私をアーティストとしてリスペクトしてくれて、瑛子の一番好きなアイディアはどれか?と聞いてくれたから、これだと応えました。"Oh Yeah?"とか言う感じで、そして私はそれをアーヴィング・ペンに撮ってもらいたいと、言ったら、"Who is Irving Penn?"と問われたから、”You don't know Irving Penn?"と、アーヴィング・ペンを知らないのは恥よと言わんばかりに言ったら、ムッとしていました。でも本当にそれは恥ずかしいことなんだけれども、やっぱりマイルスはびっくりしたみたいですね。自分が高く評価している瑛子というアーティストが、それだけリスペクトしているフォトグラファーを、俺は知らなかったと言うことに対して、すごく自分への怒りがあったようでし、またものすごく興味があったと思います。私は、マイルスからアーヴィング・ペンの本を送れと言われたけど、送りませんでした。送る必要はないと私は思いましたので、いきなり今度は制作の過程に入ったわけです。いろんなことを考えていたと思いますが、殆ど自分の記憶にないぐらいに、ボツになった9案というのは、私のとって、さほどセンセーショナルではなかったですね。私はもちろんマイルスがトランペットを吹いている写真などというアイディアは入れていません。彼が何か違うことをしている写真をいろいろ考えたと思います。あのときのドローイングをどっかで探し出そうと今トライしているのですが、どんなアイディアを9案だしたのか私も興味があるのですが、思い出せないのですね。


常 : 石岡さんがデザインなさった日本制作のRCAビクターと、CBSソニーのマイルスのコンピレーション・アルバムも、左右一つずつの目のアップというミニマリズムに則った作品ですものね。


石 : そうですね。どうして私がああいうデザインをやりたかったと思うという話をマイルスと、今になってマイルスと話せれば、もっともっと時間をかけて、もっともっといろんな話をし、マイルスも、もっともっと私に深い関心を持てただろうと思います。まあいろいろな映画や、私が作ったものを見せながら。


常 : もしマイルスが今も健在だったら、今年80歳になります。もしも石岡さんと、マイルスがさらに共有する時間をもてたら、さらに違うお二人の接点ができたのではと思いますが、如何でしょうか?


石 : そうですね。私はたぶん、まあ友人と言うほどものすごい長い時間をマイルスとお付き合いしているわけではないけれども、でも何か友人だなと感じることがたくさんあったわけです。だから友人として、彼を年齢を超えたものを創れると励ますことは、私にはできたと思います。アーヴィング・ペンさんだって今は86歳(実際は1917年生まれ、今年89歳です。)になられたわけですよね。でも、この年齢でこそ、出来るというものを本当に創っておられるわけです。それは、びっくりするほど新しかったりします。まあペンさんと私がよく話すのは、やはり、マティスやピカソ、特にマティスがそうだけど、一番最後に近い作品が、一番ラディカル(革新的)だったりするわけです。そういう風に生きられれば素晴らしいねと言うことです。ペンさんも最近はご自分で、テーマを絞ったものを少ない部数で自費出版なさっているんです。そういうものを見ると、本当にすごいですよ、やっぱり。私個人も、年齢と自分のクリエイティヴィティを、世間が必ず一体化して、ジャッジすることに対して、もう20代から私は抵抗してきたと思います。年齢の割に成熟しているとか、若い感性とか言われるのが耐えられなく、なるべく年齢を公表しないで仕事をしてきたつもりです。そして、女性であるとか日本人であるとか年がいくつであるとかと言うところを越えたところで仕事をして、賞をいただいたりすると、またいつものマスコミが来て、日本人として西洋社会の中で仕事をすると言うこととはとか、女性としてとか、またいつもの質問をされるわけです。おそらくマイルスというのは、黒人として大きな一つの壁を、突き破った方だと思うから、また私とは違う、ものすごい大変な時代を生きてきて、そういった周りからの見られ方に対して、すごく自分が鬱陶しいと思う時代を過ごしてきたと思います。黒人、年齢、家庭、育ちはどうなのかと、実際そういった要素と、創りあげた作品が関係はあるかもしれないけれど、切り離して判断して欲しいというのが、多くのものを表現をしている人の希望です。もちろん、マイルスがあのときに亡くならなくて、80歳を迎えていれば、ものすごく苦しみながら、特に体力が落ちていればトランペットの音がどんどん細くなってくるということもあると思うけど、でも、その年齢じゃなければ創れないというものを創るというが彼は出来たんじゃないかと思う。マイルスももし80歳になって、我々友人がどんなにその演奏を望んでも、本人はすごく苦しむと思いますけど、苦しみというものが表現に出てくると思います。それは素晴らしいことなんですよね。それを私は聴いてみたかったなあと思いますから、80代でも、もしマイルスが音楽を創り続けてくれれば、う~んやっぱり楽しみだったかなあ、残念なことですよね。


常 : マイルスが亡くなったときに、どうなさっていたかを教えていただけますか?


石 : 91年の夏は、コッポラのドラキュラにかかりっきりで、コロムビア・スタジオという刑務所に監禁されていたような状況で、誰とも連絡を取らず、一心不乱に仕事に打ち込んでいましたので、8月の最後のパフォーマンスとなった、ハリウッド・ボウルでのコンサートも近くにいながら、知りませんでした。マイルスが亡くなったという連絡が入ったときに、やっぱり終わってしまったのかなという、何か悔しさのような気持ちを感じましたね。おそらく最後のコンサートを見たファンの方達は、マイルスの終焉というものを認めざる得なかった、一種の証明のようになったかもしれませんが、私はそういった瞬間に立ち会ってないから、え、こんなに早くと言った感慨がありましたけどね。


石 : マイルスはやはり常に、新しいものに対する鋭敏な感覚がありましたね。マイルス・デイヴィスという人は、もっと大きくジャズ以外の世界から、評価される可能性のあった人だと思いますね。マイルス自身が自分の力で、ジャズの世界から外に飛び出して、別の広いジャンルに挑戦するというのが、自分ではなかなか出来にくかったのか思われます。ルイ・マルの時のように、声がかかればどんどん出ていくのに............あれだけのすごい仕事を残せる人だから。私の著書の中にも書いてますけど、マイルスから一緒に、ピークの頃のマイケル・ジャクソンのコンサートに行こうと誘われたとき、私はマイケル・ジャクソンは興味がなかったのだけれども、マイルス・デイヴィスと2人で行くのは、結構悪くないなと思ったのですが、コッポラの仕事が抜けられなくて(これはちょっと時間的に矛盾してます。コッポラの仕事はおそらく91年のドラキュラで、おそらくMishimaのプロダクションのことをお話ししていると思います。)、行けませんでした。もし行っていれば、そこから何か新しいコラボレーションが拡がったかもしれないので、非常に残念に思っています。それはニューヨークの彼のプロデューサーが力を貸してくれなくても、他の人たちを説得することは可能だったかもしれないのですが、私がそんなに熱心になれなかったと言うこともあって、残念なことになってしまいました。マイルスは、いろんなジャンルで、いろんなことに挑戦したかったんじゃないかと思います。何か新しい力のある演出家が、マイルスという素材を、主な素材として何かすごく新鮮なことを料理してみせることが出来たら、まあそれをマイルスは私に望んだわけだけれども、私にはそれだけのことをやってのけるエネルギーも、その時はなかったし、もっと他の方に気持ちが向いていたと言うこともあったので、残念だったなと思うけれど、そういうことは可能だったかなと思います。とんでもないことを思いつくという可能性もあったと思う。たとえば、ブロードウェイのプロダクションをマイルス・デイヴィスでやると言うことですよね。ルイ・マルの映画をマイルスが創ったように、ブロードウェイのプロダクションを、そのクォリティの高いプロダクションを、マイルス・デイヴィスの音楽で創ってみるとかね。そんなに難しくなく出来たかもしれないというように思います。


石 : 私がTuTuのパッケージ・デザインでグラミー賞をいただいたときに、マイルスも一緒にレセプションに出席すると約束をしていたのですが、マイルスは、3時間ぐらいかけて、ヘアスタイルから何まですべて磨き上げるのですよ。あれだけ完璧に自分の外見(ルック)に気を配るというのは、やはりセレブという人たちはこのように毎日生きているのだなと、と言うことを認識させられました。男の人では、そこまでやるスターを見る機会は少なかったですから、マイルスを身近に見てちょっとびっくりしました。女性ならさもありなんと思えますが、男性で半日もかけてドレスアップ、ヘア、マニキュア、メイキャップとすべてで自分を磨き上げて舞台に昇るというのには、驚きましたが、彼らにとってはそれは当たり前のことでしょう。マイルス自身を見ると、デビューした頃から、ハンサムでもてはやされ、もし彼があの美貌を持っていなかったら、同じ音楽でもあそこまで評価されてスターになったかどうかとも思えます。そういうことはどの世界でもあることじゃないでしょうか?美形の女性や、男性の方が同じ能力を持っていても高く評価されてスターになってしまうと言うことが。

 そういうことから、たとえばマイケル・ジャクソンの外側から見た自己演出というのは、マイルスを飛び越えて究極でしょう。そういうところは、黒人同士として、マイルスは、マイケル・ジャクソンがスターになっていく過程で、外見の自己演出というケアを200%していたと言うことをよく知っていたと思います。「ただ白い手袋をはめてダンスするだけでスターになってしまうなんて、とにかくムカつくよ。音楽的には俺の方がはるかにすごいことをやっているのに。」とマイルスが言った悔しがり方は、すごく面白いなと私は思いました。もちろんそれはスターダムと言うことに対した嫉妬だと思います。でも、世の中ってきっと、マイルスに限らず、どんな分野のクリエーターも、そう言ったことで苛立つことが多いと思います。すごく才能があるのだけれども、その才能というものが一般が追い求めるレベルよりも高すぎて、いわゆるマジョリティに対してのスーパースターになれない、そう言う人はこの世の中にたくさんいると思うのですよ。そう言う人たちの苛立ちは、どんな分野でもあると思います。だから外側からの演出によって、スターというものが作られる、本人もそう言うものを受け入れて、100%スターを演じたい、その両方が合体して作られたスター像というものを、マイルスは非常に悔しく思いながら見ていたんじゃないかと思いますね。俺もそういう風に演出されたいと。


石 : でも実際にマイルスが、トランペットを吹くと言うことをやめて、マイルスという素材だけで、たとえば映画を作ってみようとか、そう言うことをやろうと思ったときに、彼が果たしてやるかと言うことを考えたときに、そこには難しいものがあったかもしれません。トランペットを手放すと言うことは、マイルスというものが存在しないことになるわけで、トランペッターとしてのマイルスと言うことを常に考えたときに、マイケル・ジャクソン達と比べたら、当然演出の限界があったと思います。


常 : では、最後に、TuTuのジャケットの話をもう少し細かくお話しいただけませんでしょうか?


石 : 出来上がった写真をセレクトして決定したのは、もちろんディレクターの私です。それは、ペンもマイルスも、尊敬してくれて、これは瑛子の演出の仕事なんだと言うことを認めてくれました。ですからそのような制作の過程がすべてうまくいったあとに、アートワークでもグラミー賞が受賞できたことを一番に喜んだのは、マイルスですよね。マイルスがすごく喜んでくれました。もちろんアルバムの音楽そのものでもグラミー賞を受賞してますし、ですからマイルスは、レーベルのワーナーブラザースがこのことをすごく高く評価してくれることを期待していたと思います。

 アーヴィング・ペンさんをキャスティングしたのは、私のメンター(影響力の大きい人)で、作家としてストイックに自分を戒めている方が撮影すれば、究極のミニマリズムを表現できるのではと思った、最高に贅沢なキャスティングでした。ペンさんとは、”Eiko by Eiko”が出版されたときに、出版社に瑛子に会ってみたいと連絡があり、初めてお目にかかって以来、いつか、この偉大なフォトグラファーと仕事をしてみたいと思っていました。それがマイルスという最高の素材(素材という言い方は失礼かもしれませんが。)を得て実現しました。ペンさんも、マイルス・デイヴィスは本当にすごいと言ってくれました。撮影の最後の、マイルスがペンさんにキスするシーンを想像してくださいよ。そして今でも、あのフォトセッションの日の最後は忘れられません。エレベーターの中の中央に、マイルスがいて、マイルス専属のメイキャップ・アーティストのアシスタントと、マネージャーの二人の黒人が立っていて、私はペンさんにマイルスにヨーロッパ・ツアーに行ってらっしゃいと挨拶をしてすぐに戻るからと、スタジオのドアを開けたら、目の前のエレベーターに3人が止まったまま、私を待っていてくれました。3人の黒人の中に私は入っていったのですが、また凄い怖い顔をしていたのです。私が”How are you doing?”と問いかけたらマイルスに" I hate Japanese"と言われ、ドッキーとしていたら、さらに”I hate you"といって、強く抱きしめてくれました。そしてエレベーターがすぅと下まで降りるなんて、まるで映画のシナリオみたいでした。あの20秒ぐらいのマイルスが抱きしめてくれた感じは、マイルスらしい表現の表し方。ものすごく喜んでくれたと思うし、また"I hate You !"と言った、私の仕掛けに対して、俺は全部やられてしまったよという、憎しみと共に、ミスター・ペンというあんな素晴らしいフォトグラファーに撮られてよかったよと言うのと、お前(石岡さん)は、なかなかやるよなというのが、いろいろな気持ちをひっくるめて、忘れられない20秒ぐらい、またあそこに行って計ってみたく思うぐらいに、人生の中にそう言う時間ってあるんですよ。だから、とことん自分を信じて突き詰めていかないと、そう言う瞬間というのは、自分の人生の中で、得ることは出来ないのかなあと思います。本当にあの"I hate you"というのは耳にこびりついて離れず、本当に忘れられません。黒人の方って、そう言って”She is so Bad."と言って実は褒め言葉だったりしますよね。裏返した表現をするじゃないですか。だから、最上級の喜びを表してくれたのだと思うんですよね。”I love you so much."のような。


常 : マイルスにとっては演奏にも劣らない最高の自己表現が終わった瞬間だったのでしょうね。


石 : そうでしょうね。そして下にはリムジンが待っていて、そのままヨーロッパ・ツアーにいらして。


常 : そのままエンドロールが出てきそうな、映画の一シーンのようですね。


石 : それから二度と食事も出来なかったんですよ。(これはちょっと矛盾してます。確かマイルスと一緒にグラミーのレセプションにも参加したし、Tokyo Form & Sprit展もありましたし、確かグラミーの受賞祝いに自宅で手料理をご馳走してくれたというエピソードも出てきます。)でもいいのですよ。この20秒のために、我々は汗を流し続けるのですよ。凄く気障な言い方ですが、私はそう言う瞬間が、あることを信じて精一杯やっちゃうんだと思います。必ず成功しないケースもあるかもしれない、だけど、成功しないかもしれないから思い切ってやれないなという、やり方には意味がない。失敗してもいいから精一杯やりたいと思います。


 国を超えて、人種を越えて、性別を超えて、いわゆるクリエーターという厳しい世界に生きている人間同士には、究極的には通じるような、通じ合えるような気がします。マイルスとも、その20秒間というのは泣きたいような、とっても嬉しいような悲しいような、感激のような摩訶不思議な気持ちになりました。マイルスと別れて、ミスター・ペンのところに戻って挨拶をして、スタジオを出てマンハッタンを歩いたときに何か涙がじーんとでるような気がしたんですよね。こういった体験が一つのプロジェクトで、1回でも体験できれば、それで生きている意味があるのかなと思えます。マイルスとの時間というものは、得難いいろいろなことを教えてもらえたなと思います。彼も、私から教えてもらえたと思ってもらえればいいけど(笑)まあ、それを言う人ではないわね。まあ今、天国でそう思っているかもしれません。瑛子うまくやったよ、俺は君とのプロジェクトでって。

 
 
 
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